Archive for December, 2010

ヤノマミ 本のほう。

ヤノマミの、本の方を読んだ。 ちょっとづつ読み進めて読み終わったところなのもあって、今、特に印象的に残っているのは後半部。 ヤノマミはもしかしたらもう、今年や、来年には、若い世代の文明との接触が進んで、 その文化や生き方が失われているかもしれない、というところ。 今の彼らの原初的な生き方の核となっているシャボリ・バタというシャーマン。 晩年を迎えるシャボリ・バタ。 若い世代のNGOによるブラジル文明との接触。ポルトガル語の習得。現代医療で救われた体験。 それでも、そんな変化の境界にあっても、ヤノマミ=「人間」という意味のそのひとびとが、 同じ人間である私たちに、すさまじくつきつけてくるものがある。 ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。 剥き出しのまま、ただ同居していた。 だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。 僕はそんな「常識」に慣れきった人間だ。 彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。 善悪や規範ではなく、ただ心理だけがある社会に生きる人間だ。 そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。 彼らを否定してしまえば、彼らは違うのだ、と切り捨てていれば、心身が壊れることはなかったに違いない。 でも、そうは思わなかった。 むしろ、同じなのではないか、と思った。 僕はワトリキで人間が持つ「何か」に触れ、しかも、その「何か」を肯定したことだけは間違いなかった。 言葉にすれば、レヴィ=ストロースが言ったように「人間が持つ暴力性と無垢さ」なのだと思う。 人間は暴力性と無垢さを併せもつからこそ素晴らしい。 人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。 僕はそのことを認めることから始めたいと思った。 ちょっと大袈裟ではあるけれど、貧困問題や九・一・一後の世界や戦争や死刑制度を考える時も、そのことから始めたいと思った。 ワトリキの人々が今頃何をしているのか。 きっと彼らは僕らのことなど忘れてしまったに違いない。 でも、ひょっとすると、誰かが軟弱なナプのことを思いだし、話のネタにしているかもしれない。 そして、アハフー、アハフーという笑い声が今日も響いているかもしれない。 そうであるなら、僕はとても嬉しい。 僕は、そんな彼らがとても好きだった。 泣きたくなった。 誰かの書評でもあったけれど、国分さんが解釈や答えを強引に出すようなことをしなかったことに、感謝さえしながら読んだ。 本人の言葉でいうと、それは「どんなに考えてもわからない」からなのだけれど。 ただ、感じたことや認めたいと思ったこと、同居生活の中で大切にしたこと、それが素直に、書かれていた。 何年も前に書かれた文化人類学的な本ではなく、つい最近のレポートだということが、 とても大きかった。 いろんな人に読んでみてほしい。...
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